Q.剣菱模様と名前の由来は?
元々マークの上の部分の形が「剣菱模様」と呼ばれており、後に剣菱模様の酒として銘柄「剣菱」と名前が付けられました。剣菱模様は陰と陽の男性と女性を表しており、陰陽和合という2つの相反するものが合わさり、物事が成立しているのだという東洋思想の表現のひとつです。そして、剣菱のロゴマーク自体は1505年の創業以来、全く変わっていません。その剣菱模様を誰が考案したのかは不明ですが、完成度の高さに感心しています。また、長年にわたり、時代と共に変化する価値観を超えて、スタンダードであり続ける力を持ったデザインを顕彰する「ロングライフデザイン賞」も受賞しました。実は剣菱模様のロゴマークは2種類のロゴマークを採用しています。900mlの製品と1800mlの製品で微妙に違うデザインのロゴマークを使い分けています。昔の人は菰に手書きで描いていたので、現在のロゴマークのように細かい角度や色の指定はなかったみたいです。なので、手で描くたびに多少、剣菱模様が異なっていたそうです。ある日、社内会議でロゴマークを統一しようという提案が出ましたが、たまたま来客された有名なデザイナーの方が「剣菱模様の強みは角度や色など、細かい部分を拘らなくても剣菱と認識できる点」、「これこそがデザインとして究極の形」だとアドバイスされ、細かいことは気にせずそのまま行くことに決めました。そして、今から500年前に剣菱と称して銘柄が誕生して以来、剣菱模様のロゴマークを全く変えずに酒蔵を継承してきました。剣菱模様のロゴマークが変わらないことは、酒の味わいを変えないというお客様に対する約束だと考えています。500年前から剣菱模様のロゴマーク、酒の味わいが変わっていないことこそが剣菱の誇りです。
Q.500年を誇る歴史のなかで「剣菱」が人気を博す要因となった出来事についてお聞かせ下さい。
まず、酒質の点から説明すると、清酒への参入が早かった点が挙げられます。この点について詳しく説明をすると、炭濾過した酒が1600年代前半に伊丹で始まりました。炭を入れ、濾過を行い、清酒を造るという方法をいち早く導入したそうです。その酒を江戸市場で売っていたのです。そして、柱焼酎と呼ばれる、アルコール添加の導入が早かったそうです。アルコール添加という製法も、1600年代前半に伊丹で始まっており、剣菱酒造は早くに導入しました。アルコール添加を導入したのは伊丹の数蔵だけで、初期に導入した酒蔵の1軒だと伝えられています。これによって後味にキレがあり、保存の効く酒が造れました。それまでの酒は3、4日しか持たず、江戸まで運搬する間に腐ってしまっていたのが、江戸まで運んでも腐らない酒に変えることができるようになったのです。全国のどこに運んでも腐らない酒ができたので、樽廻船などを活用して全国に流通することができた点も大きな転機となりました。ほかには、十水と呼ばれる醸造方法があり、体積の米1に対して、水1の割合で醸造する方法を剣菱酒造が最も早く導入しました。1800年頃の話で、これにより現在の剣菱の礎を築き、後に日本酒のスタンダードになっていったそうです。ほかには、戦後に三増酒を造らなかった点も大きかったです。三増酒は物資不足の中、推奨されましたが剣菱は「剣菱の酒ではない」と三増酒を造らず、剣菱の味を守ったと聞いています。それにより良い酒質を保つことが出来ました。また、評判の点での主なターニングポイントは将軍家御用達の酒に選ばれたことです。伊丹が近衛家の領地だったこともあり、近衛家の名で京都でも酒の販売をしており、宮中にも献上されていたとの報告記録があります。剣菱は天皇、関白家、将軍家から庶民にまで、幅広く愛される酒でした。ほかにも、歴史家の頼山陽や幕末の土佐藩主である山内容堂にも愛されていました。興味深いエピソードとして、山内容堂は坂本龍馬の脱藩を許す代わりに勝海舟に剣菱を一気飲みさせたという歴史が残されています。勝海舟は酒が得意ではなかったようですが、坂本龍馬のためにと剣菱を一気に平らげたそうです。山内容堂は勝海舟が剣菱を平らげる様を見て、坂本龍馬の脱藩を許したそうです。また、山内容堂は頼山陽を心から尊敬していたそうで、それに影響されて剣菱を愛すようになり、「剣菱にあらずんば即ち飲むべからず」との迷言を残しています。最近では、映画監督として活躍された宇野重吉氏やお笑い芸人の志村けん氏も剣菱を愛してくれていました。そして、人気漫画の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の両津勘吉さんも愛飲家です。話の中にも剣菱の蔵が登場しています。実際にアシスタントの方が蔵に来て、当時の本社蔵を取材して頂きました。このように剣菱は有名人からも愛され、500年間も歴史を繋いでくることができました。この「愛されている風景」こそ、剣菱酒造の歴史そのものなのです。
Q.「止まった時計でいろ」と言う家訓についてお聞かせ下さい。
要するに流行を追うなということです。酒の好みは時代とともに変わっていきますが、また好みは戻ってくるものであると信じています。そして、じっくりと構えていなさいという教えでもあります。今までに美味しいと喜んでくれたお客様からの評価や自分の腕を信じて、妥協なく普段通りに酒造りをしなさいという意味になります。今から何が流行っているか考えて造っても、既に1歩遅れており、それは遅れている時計と何ら変わりません。遅れている時計の秒針は正しい時間を示さないので、いっそのこと時計の電池を抜いてみます。そしたら、24時間で2回ピッタリと正しい時間を示します。そのほうが、よっぽどマシなのではないかと捉えています。だから「止まった時計でいろ」という家訓なのです。家訓が誕生したのは、そんなに昔の話ではなく、明治頃の話だと伝えられています。江戸時代からは「変わらない酒」が評判になったので、「止まった時計でいろ」という剣菱酒造の家訓は、その頃から伝えられてきたのかもしれません。いつに家訓が設定されていたかどうかの詳細については詳しくは分かっていません。
Q.「剣菱の味を変えない」という酒造りの哲学についてお聞かせ下さい。
剣菱では「味を変えない。ゴールから逆算した酒造り」を基本方針に掲げています。味の複雑性と深みというのが剣菱の生命線になっています。その味を忠実に再現するために、ゴールから逆算した酒造りを再現する必要があります。「昔ながらの手づくりにこだわればこその剣菱の味」ではなく、「剣菱の味にこだわればこその昔ながらの手づくり」が剣菱の原点になっています。剣菱におけるこだわりはただひとつで、剣菱の味を変えない点にあります。その結果として、昔ながらの手作業で行わなければならない工程が多いというだけに過ぎません。話は変わりますが、マーケットインのマーケティングもしません。要するに、マーケティングリサーチは行わないということです。プロダクトアウトの1本で勝負しています。自分たちが納得のいく商品、お客様が評価してくれている商品に照準を定めています。たとえ、それが古いものだとしても1つの基準として固定的なポジションの酒が存在していた方が良いと思います。業界的にも新しい酒は必要不可欠な存在ですが、一方で古い酒も存在していないと面白くないと感じています。それは、落語の世界でも同じことが言えるのではないでしょうか。新作落語がないと話題は増えませんが、時には古典もじっくりと聞きたくなります。なので、酒も落語もその両方が必要不可欠だと思います。剣菱では、新作落語ではなく古典落語の位置取りでの発展を大切にしようと考えました。そして、剣菱の酒質が古くさくて現代の感覚とズレが生じているかと言われると決してそうは思わないです。江戸時代、剣菱の特徴は江戸の武士もしくはそれに憧れていた庶民が主なターゲット層でした。江戸の武士は参勤交代で日本中から江戸に集まり、食材も日本中から江戸に運ばれました。なので、剣菱は何の料理と合わせられるかの推測が困難でした。当時、剣菱と地方の地酒蔵の大きな違いは、この点にありました。地方で醸された地酒であれば何を食べているのかの予測が可能です。例えば、山間地であれば川魚や山菜、海辺の地域であれば新鮮な魚介類という予測が容易です。しかし、剣菱酒造は江戸で酒を売り、参勤交代等で日本各地から江戸に集まってきた人々が対象だったので、剣菱が何の料理と合わせられるか分からなかった。そこで酒を売ろうとしたら、どのような料理と合わせても70点以上の評価を得ないと酒は売れません。料理と酒の相性は似ている味や香りがあるか、料理の味を補える味があることにより良くなります。なので味を複雑にすれば、様々な料理との相性が良くなります。そこで剣菱はブレンドと熟成という工程を導入したのです。江戸時代と比較しても料理がより複雑になっている現代において、剣菱が時代錯誤の酒かと問われると、私はそうは思いません。料理が多様化する現代だからこそ、このような酒が世の中にあっても良いのだと思います。剣菱は歴史的な味と現実的な存在価値の両方を捉えていると考えています。
Q.500年間、「剣菱」を繋いでいくなかで、危機的状況に陥ったことはありましたか?
1941年からの太平洋戦争と1995年の阪神淡路大震災の影響は大きかったです。神戸の空襲では蔵が全焼し、蔵人も戦地に行ってしまいました。そして、大阪の本社も大阪空襲の影響で全焼する被害に遭いました。全国で300万人以上が犠牲になり、神戸の街も焼け野原になってしまいました。当時の損害は計り知れなかったと思います。1995年の阪神淡路大震災では剣菱酒造の8蔵のうち7蔵が完全倒壊してしまい、4名の蔵人が犠牲になりました。その年の酒造りは一時休止、3月の終わり頃から残った1蔵で集中的に酒造りを行いました。その年は異例で、普段は4月上旬に終わるのですが、5月の下旬まで酒造りを行っていました。剣菱酒造は貯蔵を得意とする酒蔵ですが多くの貯蔵庫部分は倒壊を免れたのでなんとか蔵を存続することできました。しかしながら、断水の影響から瓶詰ラインが3ヶ月間も停止せざるを得なかったので、その期間に売り先を失ってしまうという損害は発生してしまいました。ですが、全国の剣菱を待ってくれているお客様や飲食店に支えてもらいました。それは、「剣菱以外の酒は注文しないで待っている」という飲食店もいたほどです。剣菱の樽酒や看板を掲げてくれている飲食店の皆様に待っていると言われ、精神面でも大きく救われました。倒壊した蔵を前に「必死になって、ひとつずつ片付けていこう」という前向きな気持ちになることができました。
Q.「剣菱」に不足している点などがあれば、お聞かせ下さい。
それは、情報がお客様に全く届いていないという点です。「剣菱が何をしているのか」、「どのような目標で酒を造っているのか」、「そのための工夫など」がお客様に全く伝わっていません。PR不足です。これは剣菱酒造に営業担当がいないことが要因です。これは2つ目の家訓と確実に関係しており、「お客さまからいただいた資金は、お客さまのお口にお返ししよう」です。手持ちのお金はお客様に返そうという教えから酒造りに投資をしている点です。そして、3つ目の家訓が「一般のお客さまが少し背伸びしたら手の届く価格までにしろ」です。これは、「極端に高価格にしてはいけない」という内容と繋がり、日本の文化として酒というのは身分を超えて、対話ができるツールとしての役割があると考えます。そうなると、高所得者にしか手が届かない酒というのは不自然です。あと、原価の何倍もの価格をつけるのも不自然です。それでは、日本の文化的役割を酒蔵として果たせていないという考えから、この価格帯で酒をお客様に届けることを大切にしています。そうなると、2つ目の家訓と3つ目の家訓には少しの矛盾を感じることもあります。それは、「いくらでも酒造りにはお金使いなさい」という家訓と、その一方で「値段は抑えなさい」という家訓があります。それを言われたら、どこかで原価を抑えなければならないので、営業担当は配置せず、マス広告も打たないという方針でやってきました。もちろん、CM広告なども全く打ちません。PR記事も絶対に掲載しません。この部分については、基本的に今後も変えない予定です。流石に海外に営業担当を派遣しないのは無理があるので、現地の市場調査係としての役割も担いながら営業担当者を2名ほど派遣しています。市場調査は海外市場で何が好評なのかを調査する目的というよりかは、どちらかというと、海外のアルコール文化に興味関心があり、それを剣菱にも活かせるのではないかと期待を寄せての調査を行っています。最初は全て、私が海外出張を担当していましたが、流石に体力の限界でした。PR不足についての話題に戻すと、ありきたりな話にはなってしまいますが、SNSの活用などを行いながら、PRしていくことも検討しています。しかしながら、そのような知識を持った社員が少なく、経験もない。それを今後どのように解決していくかというところです。
Q.もし、剣菱酒造の蔵元として生まれていなかったら何をしていましたか?
私の才能がついてくるのであれば将来なりたかった職業は弁護士です。しばしば、企画なども任されていたので現場のディレクターなどにも興味関心がありました。ほかには、社会学者にもなりたかったです。
Q.100年企業とベンチャー企業の相違点についてお聞かせ下さい。
基本的な違いはないとは思うのですが、あるとするならば、100年企業の方が経験が多いことが挙げられます。なので、対処をする時に、過去の事例を引っ張り出しやすいというメリットがあります。「これをすると失敗する」、「このような場合は、この部分が問題になる」という予想ができます。例えば、飲酒に否定的な空気が世間に広まる時期があっても、それは必ず感情の波からくるもので、人間らしい部分を否定し、非のない人間、つまり神様に近づきたいと思う時期があり、しばらくするとそれでは人間らしくないと人間らしさを認めるようになることを人は延々と繰り返します。それを理解しているか、その波の経験の数が1つの違いなのだと思います。他には「事業継承の仕方が分からない」、「事業継承をしたときに、どのような問題が起きるのか不安」などの感情については経験していないので仕方がないことです。また、企業の社歴によって経営者に求められることが違うというのも経験してみないとわかりにくいものです。例えば、ベンチャー企業は社会に対して今までにない新製品や新サービスを提供することにより注目され、次のステップとして資本が少ないので社業拡大の為に多額の借入を行います。次に良いサービスやモノを安定させ、その収益で借入を返済し、企業の健全性を高めていきます。しかし、失敗する2代目は先代の否定から始まり、対抗するため自分も新しいものをより大きな規模で創造しようとします。すると更に借金は増えていき倒産するというパターンです。
Q.「剣菱」が描く、日本酒の未来についてお聞かせ下さい。
日本酒業界全体の話としては、量が減り単価が上がっていますが、これは高価格帯が売れているのではなく日本酒自体が日常からかけ離れているからではないかと考えます。このままでは着物の様になってしまいます。それを打開するためには新しいユーザーの掘り起こしが大事ですが現状の初心者向けの日本酒は値段が高いです。たしかに、造り手側の金額から考えたら安いのですが、スーパーのチラシを眺めていると、缶チューハイ190円、ワインがボトル490円で売られています。日本酒は4合瓶490円で売られているかといわれると、そのような状況ではありません。日本酒は4合瓶で安くても980円です。価格が倍も違うのが現状です。しかし、パック酒なら同容量で安い酒が存在しますが、欠点は旨すぎる点にあります。パック酒は日本酒に慣れ親しみ、舌の肥えた人たちが支持する酒質設計になっています。きっと、年齢を重ねていくとパック酒の旨さに気付くはずです。日本酒を慣れ親しむほどに、味わいの深みやバランス、安定性に感動します。それは、反対に初心者が飲みづらいことを意味します。それならば、安価で若者向けの酒があれば良いのではないかという仮説を立てました。他のアルコール飲料と比較して、日本酒は初心者向けの酒と紹介されている商品の値段が高すぎます。なぜか、「フルーティー」、「ライト」、「初心者向け」と呼ばれている酒の方が高いです。その敷居を下げなければならないのにも関わらず、最初から敷居を上げてしまっているからお客様に選んでもらえないのではないか、初心者向けの酒を4合瓶で500円以下の価格で販売すれば良いのではないかと思いましたが、知り合いの蔵元に全否定されました。それは、その蔵元が既に挑戦していた結果、思うように売れなかった経験からでした。500mlの酒で500円以下の商品ラインナップを展開したそうですが、売れなかったみたいです。私も経営者として、その原因が究明されない限りは手を打てません。そして、日本酒の海外展開についてですが定着に100年以上はかかると予想しています。なぜなら、ワインが日本で普及するのに120年の歳月を要したからです。また、アルコール度数に原因があるのではないかとも考察し、パリで日本酒にも詳しいシャンパーニュの醸造家と意見交換をする機会があったのですが、その際に「日本酒はアルコール度数が高いが、味わいは変えずに度数を下げる方法は思いつく」、「それは選択肢としてどうだろうか」と質問すると、「君は根本的に間違っている」と言われました。そして、「アルコール度数とコクというのは必ず一致する。日本酒はアルコール度数が15度から20度という、他のアルコール飲料が全くない位置に存在するのに変えてしまうのは損」、「日本酒はアルコール度数を下げてワインとどのようにして勝負するのか」と伝えられました。たしかに、ワインは植民地政策とキリスト教の布教で世界中に広まった歴史があり、世界中で日本酒がワインと同じ立場をとることは、歴史的背景や宗教の点からみても極めて難しいと思います。最後に、日本酒の楽しみ方の提案として炭酸割りやロックを普及させていくのは、日本酒の普及において有効な手段の一つであると思います。蔵元としてはそのままでおいしいものを造っていると思っていますが日本酒は娯楽なので、どのように楽しむかは、その人の自由です。そこには「日本酒は絶対に蔵が提案する飲み方で楽んでほしい」というようなエゴも存在しません。私は剣菱を熱燗にして、おでんの出汁で割るといのも最高だと思います。
文:宍戸涼太郎
写真:石井叡