シマダグループという企業が酒蔵を運営している。蔵元は虎ノ門ヒルズの設計などを手掛けた経験を持つ合頭義理氏が就任。2021年、吉川醸造株式会社の新銘柄である「雨降」は誕生した。シマダグループは不動産開発やホテル事業を通して、常に変化する課題やニーズと向き合うことを理念に掲げる、東京都渋谷区の企業である。社歴を辿るとシマダグループ株式会社の創業は1952年。世田谷に所在する一軒の精米店が始まりだ。1952年に「有限会社 鳥山北部 島田精米店」という会社を興してからは時代や食の変化を反映し、建売住宅販売などの事業の多角化を図った。また、2001年からは国産米麺(フォー)を主とした飲食店「コムフォー」を出店している。そして、銀行からの案件紹介により、神奈川県伊勢原市の吉川醸造の株式をシマダグループが取得して事業継承を行った。夏前には話が舞い込み、9月には視察、2020年10月には事業継承という急展開だったそうだ。

酒蔵継承を即決できたのには理由がある。その理由は、シマダグループの原点が「米」にあったことに由来する。企業の歴史として精米店が始まりだった経緯や米麺の店舗展開を行った経験から、米に関連する企業として日本酒を醸造する構想は以前から持ち上がっていたという。また、企業継承を行った際には会長から合頭氏に「社長やってよ!」と気軽な雰囲気で言われ、自由な社風と新しいことに挑戦する雰囲気に共感して快諾したそうだ。そして、蔵元に就任した。

以前までの吉川醸造は日本酒の需要減や新型コロナウイルスの影響により運営が困難な状況に陥っていたそうだ。それに伴い、蔵の老朽化も深刻で補修も困難な状況だったという。現在は蔵の補修や醸造設備を計画的に導入しながら、酒質の更なる向上を目指す。特に醪の冷却設備である、サーマルタンクを導入した際には著しく酒質が向上したのだと振り返る。

1912年創業の酒蔵は「酒造製麹論」などの著者である故杉山晋朔博士の醸造理論に基づいた丁寧で繊細な酒造りに定評があった。製麴工程から最小単位での手造りによる蓋麴製法の採用など、伝統製法を脈々と継承し、受け継がれてきた。また、これまでの神奈川県下では「菊勇」の銘柄で地元を中心に親しまれてきたそうで、新体制での再出発を図ってからも「菊勇」は蔵の歴史を語り継ぐうえで必要な存在として存続させる判断を下した。継承当初、シマダグループから3人の社員が吉川醸造の運営に携わるために、神奈川県伊勢原市へ向かった。流石に蔵には誰も残っていないだろうと考えていたそうなのだが、杜氏が蔵の掃除を黙々と行っていたそうだ。経営陣が変わったとしても「酒造りの仕事を第一に考えて行動するのが杜氏の仕事」と真剣な表情で話す、水野杜氏の姿をみて、蔵元の合頭氏は杜氏の役割を引き続き担ってもらうことにしたそうだ。蔵元は「酒造りの経験者が不在の状況からの始動を覚悟していたので幸運だった」と振り返る。

そして、酒蔵を運営する企業が変わったとしても吉川醸造の日本酒造りの基本姿勢は変えないことを重要視した。シマダグループは歴史を実直に継承し、温かみのある蔵の佇まいも残しながら、その上で革新的な酒蔵運営を行う。そして、地域に根差した酒造りを追求しながら、日本の食文化を背負い世界を目指す。昔からある酒蔵には蓄積された時間や技術という価値が残されているのだと合頭代表は考えており、そこにシマダグループが蓄積したノウハウを活かせたらと意気込む。次世代の日本酒業界はそこの価値を消費者に発信していく必要性があるのだ。

そして、低迷期の続く日本酒業界に「一滴」を投じたいという願いを新銘柄「雨降」に込めた。その銘柄の由来は大山(阿夫利山)から採られた。別名「雨降山」と呼ばれており、丹沢大山国定公園に位置する。神奈川県伊勢原市を表玄関として標高1252mのピラミッド型の美しい山容を誇っている。また、都心からは約2時間の距離にあり、人口100万人を誇る江戸、毎年20万人が「大山詣り」に出掛けていたそうだ。

江戸の火消しをはじめ、関東一円の農民、漁民からもそれぞれ水を司る神、航行守護の神として崇敬を集めていたといわれている。水は雨が森に降り注ぐことで生まれる。相模湾で太陽に照らされて水蒸気が発生し、上昇気流に乗って、大山に雨が降り注ぐ。麓が晴れた日にも山頂は霧や露で覆われることが多く、雨が降りやすい山容に由来し、別名「あめふりやま(雨降山)」が転じて「あふりやま(阿夫利山)となったことが銘柄「雨降」の由来だ。「雨降」転じた阿夫利神社とともに、古来より雨乞い信仰の場として知られている土地なのだ。また、ラベルの「雨降」の文字は、大山阿夫利神社の神主に特別に揮毫してもらったものをあしらっている。

そして、樹々に降りしきる雨は地中に浸透して、歳月を経て山頂から麓までゆっくりと流れだす。吉川醸造では雨降山の地層に濾過されて澄み切った地下伏流水(硬度150~160)を、3本の井戸から汲み上げて酸を意識した酒を醸す。日本では稀な硬水で酒を醸すと発酵が旺盛になるという特徴があるが、それを蔵の特性や水の性質を熟知した、経験豊富な水野杜氏が熟練の技術で見事に制御する。同時に、故杉山晋朔博士の醸造理念と現代の醸造技術を融合させて、大山の豊かな自然を表現する。

新しさと過去の遺産をバランスよく組み合わせていきながら、醸造と向き合う。それは決して、斬新さや珍しさ、目新しさだけでプロダクトを造ることはない。その蔵の歴史を忠実に表現することを目指しながら、新しさを付け加えていく作業。その挑戦は果てしない道のりになるが、シマダグループは困難な状況に直面しても目を背けることはない。前経営者はシマダグループのその姿勢に酒蔵の未来を託したことは想像に難くない。そして、その土地を日本酒で表現することが、日本酒を輝かしい未来へ連れていく唯一の手段だと信じて。吉川醸造は新体制で再出発を図る。

文:宍戸涼太郎

写真:石井叡

編集:宍戸涼太郎