


髙橋庄作酒造店の創業は1875年と詳細について定かではないのですが、当時の会津地方は会津戊辰戦争が終戦して間もない頃で社会混乱の最中に立ち上がったと伝えられています。正確な創業年度については、戊辰の役の大火を含めた再三の火災によって殆どの記録が焼失してしまっていることから分かりません。そして、終戦後には藩政から民政局へと大きな政治支配の交替期を迎えており、激動の時代であったことが伺えます。酒造業もまた、無鑑札醸造者も非常に多く、1871年には従来の鑑札制度は廃止となったことで、新免許による税の取締りも厳しくなっていったそうです。この期に髙橋庄作酒造店も届出を行い、正式な酒造業者になったとされています。従って、1875年以前から酒造りは行われていた可能性が高いのですが、正式な記録が残っていないことから創業を1875年としているそうです。そして、風情のある酒蔵は会津若松市歴史的景観指定建造物にも指定されています。もともとは農家であったことからも酒蔵の周辺には自社田が広がり、昔ながらの里山の風景はどこか懐かしさを覚えます。

現在の髙橋庄作酒造店は6代目蔵元の髙橋亘さんが中心となり、「土産土法」を理念に掲げた酒造りを行っています。これまで地域で暮らす人を雇用し、地域の米と水、昔から地域に伝わる醸造手法で地酒を造ることを重要視してきました。また、1986年からは会津の気候風土に適した酒米品種「五百万石」を自らで栽培することで、今まで遠かった農と醸造の距離を縮めることで日本酒の新たな価値を発信します。田の区画別に仕込みを分ける「穣」という純米吟醸シリーズは、「土産土法」の追求型として蔵人たちが味わいの違いを醸造技術や数値目標から忠実に表現しています。また、近年は酒粕を肥料として活用する取り組みから、酒粕に熱を加えることでアルコール分を飛ばして、清酒酵母の細胞壁を壊すことで稲の根を活性化させるという特殊な農法も実践しています。その副産物として「ジン」の製造も行います。

髙橋庄作酒造店の代表銘柄である「会津娘」は里山の農業と向き合うことから生まれ、「一田一醸」の精神から、酒蔵も田も次世代に残していこうと考えているそうです。

現当主の父である5代目蔵元が酒蔵の目の前に広がる自社田で農薬と化学肥料を使用しない酒米栽培を開始したことで、現在の髙橋庄作酒造店の礎が築かれたといいます。そして、1988年には純米酒を中心とする方針に業界のなかでは非常に早いタイミングで切り替えたことも良かったと振り返ります。髙橋庄作酒造店は本物志向の酒造りをいち早くから行ってきたことで、消費者目線の高品質な酒造り、「会津娘」の温もりのある優しい味わいとして今日まで受け継がれております。また、4代目蔵元の尽力によって田は今日まで無事に引き継がれてきました。大戦後の農地改革と、急速な都市化の影響を受け、全国各地の酒蔵の周りから稲田が焼失してしまったのですが、幸いにも自社田は市街化調整区域に認定されたことで開発を免れ、会津若松市の中心街から近い場所にも関わらず、今でも美しい里山が広がっているそうです。

そして、初代・髙橋庄作は自作農地から収穫できる米をもとに酒造業者として事業を興し、農地も増やし米作りには特に熱を入れていたと伝えられています。髙橋庄作酒造店は初代から6代目までが米作りに情熱を燃やし、約150年のあいだ田のストーリーを繋いできたことが、酒蔵の哲学(テロワール)として今日まで受け継がれております。会津地方もまた、人口減少の問題や地方の過疎化が急速に進んでいることで、離農の問題が深刻化しています。しかしながら、地域の農業を次世代へと継承する必要性について酒造りを通して価値観を発信する、髙橋庄作酒造店の活動は地域の人々や地酒マニアの人々からの応援や共感を集め、日本の酒蔵が目指すべき姿の一例であるとして評価を集めています。そして、これからも髙橋庄作酒造店は農業や里山の現状や素晴らしさについて日本酒を通じて発信していくことで、酒蔵と農業の距離を縮めて両方の最適な在り方を導き出すことを日本酒業界から期待されています。理想の米と酒を目指して髙橋庄作酒造店の挑戦は続いていきます。
文:宍戸涼太郎
写真:石井叡
編集:宍戸涼太郎











