大七酒造の創業は1752年です。大七の当主である太田家は伊勢国の出身で、3兄弟が二本松に来住して酒蔵を興しました。常陸の国で丹羽侯と出会い、国替えに何処までも着いていくと忠誠を誓ったことで門閥商人となったそうで、酒造業を許可されました。その頃から酒造業は誰もが開業できるものではなく、藩主からの営業特権が必要であった。恐らく、3兄弟は戦で主君を失ったために商業の道を選んだのではないかといわれています。そして、丹羽侯は未だ発展を遂げていなかった二本松の開発に注力し、3兄弟にも重要な仕事が割り振られました。長男の市左衛門は屋敷を構えて町人に年貢や諸役を割り振る割元の役割、次男の源兵衛と三男の三郎兵衛は各拠点に屋敷を構えて酒造業を営みました。これが、大七酒造の始まりです。
大七酒造のラベルの多くには蔦の絵が施されています。その理由は大七酒造の社屋の柱には蔦が這っており、酒蔵に彩りを与えています。10代目当主の太田英晴氏は蔦が豊穣や永遠の生命を象徴するような植物であり、大七酒造の酒も華やかに咲いたとしても短命で終わる花のような酒ではなく、旺盛な生命力で繁栄し続ける蔦のような酒を造っていけたらとの想いから蔦を酒蔵の象徴として採用しているそうです。また、酒蔵に蔦が這うことで夏季の酒蔵の室温を下げる効果もあり、蔦は酒造りと相性の良い植物であることが伺えます。
大七酒造は創始して以来、270年以上もの間、伝統的な製法を絶えさせることなく、生酛造りを採用し続けてきました。大七酒造では生酛造りについて酒造りの正統且つ伝統的な醸造方法であると捉えており、明治末年に大蔵省醸造試験所によって山廃酛や速醸酛などの簡便な醸造方法が発明されて普及していきましたが、大七酒造では自らの理想とする酒造りを追求するのには生酛造りが必要不可欠と判断し、全国の酒蔵から生酛造りが消えていくなかでも生酛造りという伝統製法を守り抜いていました。また、淡麗辛口が流行するなかでも、大七酒造は生酛造りの力強い美質を活かす技術向上を追求してきたそうです。その結果、全国新酒鑑評会では史上初の純米、生酛造りでの金賞受賞の快挙を果たしました。大七酒造では生酛造りだけを愚直に追求してきたことで、「大七」でしか感じたことのない濃醇な深いコクと均整のとれた円やかさを堪能することができ、飲み手に幸福感を与えてくれます。「大七」のデリケートさや奥行きの深さなどは唯一無二の感覚で、他にない魅力を醸し出しています。
大七酒造では生酛造りのほかにも独自に開発した超扁平精米技術や日本初の無酸素充填システムなどの最新の酒造技術を採用しながら更なる酒質の向上を目指しております。その一方で、酒蔵の様々な文化の復活継承なども積極的に行っていることでも知られています。新たな和釜の鋳造や木桶仕込み専用の酒蔵建設なども推進してきたそうです。その他にも現代の名工を生み出したり、欧米やアジアの20を超える国々に輸出したりと日本の伝統文化や酒の魅力などを各方面に積極的なアピールを続けてきました。「大七」は普遍的な価値を世界へ発信してきた結果、G8洞爺湖サミットでの乾杯酒にも採用されたそうです。これからも大七酒造では伝統的な「生酛造り」を活かしながら、新たなる名酒の歴史を刻み続けていきます。これからも普遍であることを意識しながら、二本松での挑戦は続きます。
文:宍戸涼太郎
写真:石井叡
編集:宍戸涼太郎