


「この街にとって良きことは、古い街並みが残る歴史ある風景を未来へ繋いでいくことです」。その理由としては、「会津には歴史ある企業が数多く存在しており、世間から会津の伝統や歴史が印象づいているからです」。また、「地方は人口減少の問題も抱えていることから、地元に若者が戻ってきた際に魅力的で働きたいと思われるような企業体を目指す必要性があります」。末廣酒造の8代目蔵元・新城大輝氏は頭脳明晰、論理的で道理を立てることに優れた人物なのだ。何事にも的確な答えを用意している姿からは誠実さを感じさせる。そのようなことから、自らの成功体験や功績を収めることよりも家業として正しさと向き合う覚悟で蔵を継いだ印象を受けた。慶応義塾大学では文学部の倫理学を専攻していたことも影響しているのだろう、答えのない正解を常に模索することに長けている稀有な存在である。随分と前から日本酒の消費量は右肩下がりを続けており、業界全体としても未だに解決の糸口を見つけられていない。さらに、日本酒の発酵プロセスは複雑な事象の連続で原因を調査するのが難しいとされている。そのなかで、粘り強く難解を模索できる彼こそが天職なのだろう。2023年4月、末廣酒造の8代目として蔵の指揮を執ることになったのだが、現在も日本酒業界からは熱い眼差しが注がれている。

末廣酒造の創業は嘉永3年(1850年)。開国か攘夷か、異国船来航の衝撃によって幕府が長年貫いてきた鎖国は終わりを迎えようとしていた混沌を極める時代に産声を上げた。まさに嵐の前の静けさという雰囲気のなかで末廣酒造を興したのは、会津藩の御用酒蔵である新城家の次男包裕(かねひろ)という人物で、初代猪之吉として本家から分家独立する形で酒造りを始めた。そして、創業直後に勃発した戊辰戦争を末廣酒造は何とか乗り越えて、事業拡大や杜氏制度の先駆者、明治末期の山廃造りへの挑戦、博士蔵の新設など、会津の歴史と共に歩んできた木造建築の登録有形文化財の内部では変革の時を迎えようとしている。これまでの末廣酒造は会津の酒蔵を牽引する存在で、業界のトップランナーとして道を切り拓いてきた。

現在の日本酒業界は経済酒の消費が次第に減少し、流通形態も大きく変化するなどして、激動の時代にあたる。末廣酒造も8代目が就任したことで、方向性の見直しが行われている最中だ。例えば、祖父にあたる6代目が昭和後期に生み出した「玄宰」は全国新酒鑑評会で評価を集めるための出品酒として発売されていたのだが、これからは日本酒専門の酒販店に推してもらえるような最高峰の市販酒へと方針を転換した。会津の風土と向き合うことを重要視しながら、米の旨味や膨らみを感じられて中盤以降のキレや抜け感、舌に落ちるときの心地よさを感じられる理想の酒を追求する。8代目はド直球系の日本酒(十四代 本丸 秘伝玉返し)に衝撃を受けた経験から、イソアミル系の香りが高い酵母の「協会10号酵母」を選択し、福島県の酒米「夢の香」や「福乃香」に着目。しっかりと米を溶かして滑らかな旨味を感じられる綺麗な酒を目指しており、現在は酵母と原料米については、この組み合わせで酒造りを行っているが、絶妙なバランスを目指して最善の組み合わせを探していけたらと話す。地に根差した酒とは何かを真剣に見つめ直して、暗中模索する覚悟を持つことこそが、これからも会津の地で会津の酒を発信する酒蔵の矜持であろう。

8代目は「玄宰」の名前を継承することに迷いはなかったという。一般的には跡取りが蔵元に就任するタイミングで、新銘柄を発表することも多いのだが、自分の役割は末廣酒造の歴史を次の世代へ確実に繋いでいくことなので、新しい名前を付けた酒を世に送り出すことはイメージできなかったということだ。これは、8代目蔵元が末廣酒造の歴史や文化を大切に守り抜いていきたいという想いを強く抱いている証になるだろう。今まで末廣酒造が大切に繋いできた「玄宰」を、世の中に送り出すことが歴史を紡ぐ一頁になると思いを巡らせている。また、「玄宰」の名前の由来は会津藩の家老の田中玄宰から名前を戴いているということも誇りの1つとして、継承する重要性を感じたそうだ。田中玄宰は末廣酒造が創業する前に活躍した偉人として、「天保の飢饉」などが起こった際に上手く立ち回ったことで知られている。その他にも、当時は灘や伏見の酒が人気を博しており、会津は酒処と呼べる状況ではなかった。そこで、田中玄宰は藩営の酒蔵を設立することや、灘から会杜氏を招聘したことで、会津の清酒醸造技術の発展に大きく貢献したと伝えられている。また、8代目は祖父と父が残してくれた銘柄を残していきたいという想いから、創業地の「嘉永蔵」での酒造りを選択している。1996年に末廣酒造は「博士蔵」を会津美里町に設立した。その際に「嘉永蔵」は一定期間、手つかずの状態になっていた。もし、その状況が続いていたとしたら、末廣酒造が歴史を伝える役割を担えていなかったかもしれない。

これからは「嘉永蔵」で「玄宰」を醸しながら、最新の醸造設備が揃った「博士蔵」で「末廣」を製造していく構想を立てる。たしかに、嘉永蔵は伝統的な建築で何とか酒造りが出来るという状態で十分な醸造設備が揃っている状況とは言えないが、田中玄宰が愛した会津若松で「玄宰」を醸し、「嘉永蔵」を存続する決断を下してくれた父や母に敬意を表して最高の酒を目指す。しばらくは経営と醸造を両立しながら、経験値を積んでいけたらと話す。まずは、自分で見て学び、自分で見て気付きを得る。そこから、すべてが始まるのだ。日本酒王国・福島にまた、伝統を重んじる魅力的な銘柄が誕生しそうな予感だ。
文:宍戸涼太郎
写真:石井叡
編集:宍戸涼太郎






