2018年、萩原綾乃氏が杜氏に就任した。女子美術大学で講師を務めていたが、家業を継ぐため2016年11月に蔵人として働き始めたそうだ。萩錦酒造の創業は1876年。賑やかな大浜街道から細い道を奥に進んだ場所に位置する。蔵の成り立ちは初代の萩原新吉がこの土地の豊富な水に惚れ込み、酒造業を興したのが始まり。地域を流れる安倍川の水は「極上の水」と呼ばれ、国土交通省「日本水質ランキング」で連続1位を獲得するなど、環境省が選定する「平成の名水百選」にも選ばれているほどだ。
蔵では安倍川の伏流水が勢いよく湧水している。この水は安倍川の地下水脈から汲み上げられており、柔らかで優しい印象を受ける。数値的にも官能的にも優れた名水は、市内の飲食店や近隣住民も飲用水として汲みに来ているそうだ。その名水を蔵では仕込み水や洗米、道具の洗浄などにも活用する。この水に馴染みのある、地域の人々に喜んでもらうことこそが蔵の使命。そして、静岡の料理との相性を考えた、酒質設計にするのが蔵としての責任だ。そこに水の魅力を活かしながら、優しい飲み口と柔らかな後味が「萩錦」らしさ。また、敷地内から勢いよく湧き出る、この名水を用いながら「静岡型吟醸」を表現するには「静岡酵母」が欠かせない。この酵母は酢酸イソアミル優勢の柔らかな果実香を引き出し、「フレッシュで飲み飽きない綺麗な酒」を表現できる。1986年の全国新酒鑑評会、静岡県内から21蔵が出品し17蔵が入賞、内10蔵が金賞を受賞するという快挙を果たしたのは語り草になっている。
この快挙の原動力となったのが「静岡酵母」なのだ。また、静岡県産の「誉富士」を使用することで地域性を表現している。そして、「地酒の役割はその土地を鏡のように映し出す」。萩原綾乃杜氏と萩原知令蔵元で意見を出し合い、方針を決定している。現在、萩錦酒造の銘柄「登呂の里」は美山錦を使用している。市内の観光名所「登呂遺跡」は弥生時代の農耕文化を今に伝える遺跡。2人の話し合いの中で、地域性を意識した酒米の選択が必要と考え、変更も視野に入れて検討をすすめている。小さな酒蔵だからこその、協力しながら小回りの利く商品展開、会社運営を目指しているそうだ。綾乃杜氏は家業を継ぐ前は美術大学で講師を務めながら、自身の作品制作やアートプロジェクトの活動に取り組んでいたそうだ。しかし、自身の活動に対して継続性が生まれていないことに対しての疑念が生まれ、危機感を感じていたそうだ。充実した環境を創り、個々が繋がって、コミュニティを形成する必要性も感じていたそうで、家業の酒蔵であれば作品制作との共通点も多く、夢や目標を持って向き合っていけるとの心持ちになれたそうだ。酒蔵の仕事については「アートも酒も、ものづくり」という精神性で家業を引き継いだ。
また、酒づくりを通じて、人と人が交わる場所にしていきたいと語る。歴史上、酒蔵は多くの人で賑わう場所で、週末になると蔵の敷地内が多くの人で賑わうことを目標に据えている。今後の蔵の在り方を「究極のローカル」と位置付け、SNSでも様々な人と繋がれる便利な時代において「萩錦」を醸すことを通じて、大きな和を形成していきたい。飲食店も多くの人たちで賑わっているように、自身も日本酒で賑わう空間が好きだからこそ、酒蔵も同じ目標を持つ必要性を感じているそうだ。また、今後は美術の経験も活かし、ラベルのリニューアルなどを行い、日常に小さな彩を与える日本酒を目指していくそうだ。そして、綾乃杜氏の夫で、5代目蔵元を務める知令氏は熊本県菊池市出身。自身も酒蔵(菊の城本舗・菊の城)の次男坊として生まれたが、長男が継ぐものだと感じていたこともあり、家業からは離れた進路を歩んだ。
蔵の老朽化や担い手不足などの理由により、実家の酒蔵は2004年に幕を閉じたが、年を重ねるにつれて自然と伝統産業に興味を抱くようになっていたそうだ。そして、結婚を機に妻の実家の酒蔵を支えるようになった。2017年までは建築会社で設計を担当していたそうだが、週末には蔵人となり、妻の家業をサポートした。月曜日から金曜日は設計の仕事、土日は蔵人の仕事を手伝う生活。ハードではあったが、蔵での作業は「違う自分」になれた気がして充実していたと当時を振り返る。3年間、南部流杜氏の小田島健次氏の直接指導のもと、技術を習得した。ちなみに小田島杜氏は20年以上、萩錦酒造で杜氏を務めた功労者だ。責任感がとても強く、周囲に対しては優しい職人だったと当時を振り返る。小田島杜氏の引退後は、家族3人での酒づくりへと環境が変わり、知令氏が5代目蔵元に就任。綾乃杜氏の母、郁子専務は小田島杜氏のもとで20年以上にわたり、2021年まで現場を支え続けた。「変化を楽しもう」、5代目蔵元に継承されてからは様々な取り組みを行っている。そのひとつとして、「熟成酒」に着目。料理との相性が良く、その味わい自体の魅力にも強く惹かれたそうだ。日本酒の味わいには一定の固定概念があるなかで、熟成酒はそれを跳ね除けられるのではないかという可能性を感じた。蔵で何年も保管されていた酒や、タンク貯蔵されていた酒にも影響され、自分たちが酒造りに携わるようになってからは、醸造の設計で「熟成」も意識して造るようになったそうだ。令和1年の醸造年度からは実験的に常温熟成にも挑戦している。
取引先の酒販店の冷蔵倉庫で熟成していた、自分の蔵の酒を試飲させてもらった際に、その魅力に気付かされたそうだ。綾乃杜氏は「土地の特性を活かした熟成をすることで、その土地の価値を酒に詰め込める」と期待を寄せている。それは同時に、持続可能な社会の実現が重要視されるなかで、環境負荷を掛けずに熟成を手掛けていくことを意味する。地下水が豊富に湧水する蔵であるという強みを活かし、水を活用して冷蔵熟成するという構想も明かしてくれた。水温は年間15度と一定で、熟成には適度な温度帯だ。その場所に合わせ、熟成させていくことで熟成酒の価値向上にも繋がり、味わいの幅も確実に広がっていく。受け手と送り手という概念に囚われることなく、価値観を共有することで、新たなキッカケが生まれる。それは豊かな地域社会を創っていくことにも関連し、蔵としての存在意義もより深まっていく。まだ、5代目の挑戦は幕を開けたばかり。3代目が庭に植えた、萩。その花が黄金に輝く頃、「萩錦」もまた一段と輝きを放っていることだろう。萩の花言葉は「思案」。蔵の未来について語り合いながら歩みを進めていく。
文:宍戸涼太郎
写真:石井叡
編集:宍戸涼太郎