「伯楽星」「愛宕の松」を醸す、新澤醸造店は宮城県柴田郡川崎町に所在する。実は、2011年3月11日の東日本大震災が発生するまでは、大崎市三本木北町で酒造りを継続してきた。蔵は震災の影響で全壊判定を受け、創業1873年の酒蔵は地元を離れて酒造りを続けていく決断を下した。その理由は条件に恵まれた物件と巡り合えたからだ。2005年に「まるや天賞」という酒蔵が仙台市八幡町から、現在の新澤醸造店が蔵を構える柴田郡川崎町に移転してきたのだが、震災の影響と経営不振により酒造業を廃業することとなった。その施設は新しく、醸造設備も充実しており、良質な水を取水できる土地柄でもあった。また、幸いなことに蔵独自の酵母は全壊した蔵のなかで奇跡的に無事であった。当時、新澤醸造店は被災した蔵の建て替えも検討していた。しかし、築140年の蔵を修繕するには多額の工事費用が掛かり、蔵の建て替え期間中は酒造りが中断してしまうことが懸念材料となった。そこで、大崎市三本木から川崎町へと酒蔵を移転する決意をした。移転後は自宅のある大崎市から川崎蔵まで片道80㎞の距離を蔵人と共に毎日往復したそうだ。
蔵は移転したが、新澤酒造店の5代目蔵元・新澤巌夫氏は「先祖伝来の土地を残す必要性を感じた」ということから大崎市三本木北町に震災後、新しく本社兼店舗を建て営業を継続している。震災後は常に変化し続けるという意識を持ち、世界基準に沿って進化していくことを重要視するようになった。具体的に変化した点は、労働環境の改善だ。チーム全体で高いパフォーマンスを目指し、企業としての生産性を上げていくことが目的だ。実際に労働時間の短縮や女性従業員の積極雇用、有給取得率98%以上という成果からホワイト企業の証であるユースエル認定を取得。優秀な人材を雇うためには給与水準を上げて、労働環境を整備することが最優先事項で、その取り組みが蔵の未来を創ると蔵元は考えている。それが次の世代の日本酒業界のためになると信じている。社員全員が自分で考えるプロフェッショナル集団へ成長を遂げることで、日本酒の品質も確実に向上していく。
そして、新澤氏は創業当初からの銘柄「愛宕の松」のほかに「伯楽星」という銘柄を2002年に立ち上げた。「伯楽」は中国の故事で、千里を走るような名馬を見つけ出す人こそが重要という意味。そして、天に向けて更に飛躍する。新澤醸造店も究極の食中酒を醸して料理人に見抜いてもらおうという思いから命名した。もともとは「愛宕の松」という銘柄だけを販売していたのだが消費者からの評判がすこぶる悪く、全国のコンテストで評価されるようになっても昔の悪いイメージが販売障壁となった。そこで、蔵としての経営を安定させるためにも「伯楽星」というブランドイメージのない商品名で並走する流れとなった。
新澤醸造店のキャッチーフレーズである「究極の食中酒」という言葉は新澤氏が考案し、2016年10月21日に特許を申請、商標権を取得した。それは、今や日本酒業界のなかでは常識となった「食中酒」という言葉が新澤醸造店から発信された言葉ということを意味する。また、究極の食中酒「伯楽星」は徹底した品質管理から生まれる。蔵で醸される全ての日本酒をマイナス5度の温度帯で管理し、フレッシュローテーションを徹底する。そして、酒造りを行わない夏季には取引先の酒販店を巡り、品質管理が徹底されているかを直接確認しているそうだ。消費者が日本酒を手にして飲む瞬間までを意識し、品質管理を徹底する酒蔵の姿勢が評価され、2010年にはFIFAワールドカップ南アフリカ大会のオフィシャル日本酒にも選定された。また、その他の様々なイベントで「伯楽星」は評価され、世界的にも認知度が上がっている。今や「伯楽星」は日本酒の愛好家のあいだで知らない人がいない銘柄にまで成長を遂げた。そのブランド力をマーケティングに活かしていく必要性を発信する。
そして、今後は日本酒業界で圧倒的に少ない高級酒のカテゴリーを展開していくことで、日本酒の地位向上や更なる発展を目指す。誰かが挑戦し、新しいマーケットを創造することが、業界全体を活性化させる。新澤醸造店の5代目蔵元・新澤巌夫氏と洗練された蔵人集団の挑戦は終わらない。
文:宍戸涼太郎
写真:石井叡
編集:宍戸涼太郎