北海道上川郡東川町で「三千櫻」を醸す、三千櫻株式会社の創業は1877年。今まで143年の歴史を刻んできた酒蔵は2019年に大きな決断を下した。それは岐阜県から北海道へ蔵を移転すること。なぜ、1550㎞も離れた場所に新天地を求めたのか。その理由は、以前より蔵の老朽化と地球温暖化の問題に直面していたからだ。143年の歩みのなかで蔵の壁は剥がれ、屋根には損傷が目立っていた。増改築を繰り返しながら酒造りを継続してきたのだが、蔵の老朽化には常に頭を悩ませられ続けていた。

なぜなら、豊かな自然環境と醸造設備の充実、そのバランスが美酒を生み出す秘訣だからだ。醸造設備が充実していないと納得のいく酒は醸せない。そして故郷である、岐阜県の東濃地域も時代の流れとともに、環境の変化が起こっていた。年々、冷え込みは穏やかになり暖冬になっていたのだ。昔はかなりの降雪量を誇っていた地区は、雪が降り積もることは年に数回程度と珍しくなっていた。今までの三千櫻酒造は冷却設備の導入はせずに、自然の冷え込みを利用して醪を冷やしていた。それもあり、暖冬の影響をもろに受け、冷却作業が上手くいかず納得のいく酒質が追求できなくなっていた。「三千櫻」のようにフレッシュな新鮮味のある味わいを目指すには、冷たい温度下での長期発酵をおこなう工程が必要不可欠だ。

そして、地方の超高齢化社会の急速な進行を受け、東濃地域の深刻な過疎化も頭を悩ませる要因のひとつとなっていた。地酒はその土地の人から愛されてこそという側面も強い。もちろん、東京市場などの都市にむけて酒を売る必要もあるが、地元の人々や観光客に届けなければ蔵の経営は不振に陥る可能性が高くなる。地域や蔵、東濃地区の人々に対しての強い愛着はあったものの、先祖代々受け継いできた蔵には限界を感じはじめていた。還暦目前、6代目蔵元の山田耕司氏は「100年後まで三千櫻を残していきたい」という強い想いを抱きながらも、自身の納得のいく酒造りを追求していきたいとの葛藤が2016年頃から渦巻いていた。そんな矢先に転機が訪れる。北海道上川郡東川町が公設民営型酒蔵を募集しているとの話が舞い込んできたのだ。「まずは美味しい日本酒を醸すことが酒蔵としての役割」だとの解を導き出し、北海道への移転を決断。山田氏曰く、「100年後の岐阜が酒造りに適している土地である確証はない」。そして、北海道は酒蔵開拓の時代。蝦夷地は不毛の大地と呼ばれ、作物の栽培は難しいと言われていた。

しかし、それから150年が経過した今では、農業技術の発展により、多くのブランド米や酒米が誕生している。北海道は農業分野でも発展を遂げ、多くの注目を集めている。また、北海道で新規就農を志す者も多いそうだ。大雪山から届けられる天然の雪解け水も「三千櫻」を醸すうえで魅力的だった。そして、北海道の厳しい冷え込みが、温度管理の工程をサポートし、日本酒を良い方向へ導いてくれる。そのほかにも、東川町の人口は微増を続けており、ポジティブな要素が多かった。北海道の100年後、「日本酒の未来」を創造するために前例をつくりたい。そして、山田氏は醸造家として「三千櫻」のベストを醸したいと意気込む。それは、木曽山脈の麓・岐阜県中津川市に酒蔵を開業した、「三千櫻」の名付け親でもある初代蔵元の山田三千介も、当時、きっと同じ想いを抱いていたことだろう。時代は変わる。その時代の変化に適応した者こそが、次の時代で輝くことを許される。現代のように変化が激しい時代において、変化に適応できた酒蔵が生き残り、美酒を醸し続けられるのかもしれない。

そして、2020年11月7日。念願だった、新生「三千櫻酒造」の誕生。それは、待望の東川町に酒蔵が誕生した瞬間でもあった。「北海道の酒米」に無限の可能性を感じた醸造家とJAひがしかわの酒米農家。互いに協力し合い、日本酒を通じて北海道を表現する挑戦がはじまった。しかし、新型コロナウイルスの影響もあり、計画通りに事業が展開できない日が続いた。山田氏はその期間、「蔵癖」と呼ばれる発酵経過や、「酒米」「水」の特性を理解することに時間を割けたと当時を振り返る。その期間、多くの北道民の酒販店や東川町の人々が心配し、買い支えてくれたことも大きかったそうだ。そして、2年が経過した現在、「三千櫻」の評判を首都圏でも耳にする機会が増えた。北海道のホープとしての役割を担いながら、北海道の日本酒の地位向上のために邁進している。そして、その期待感は蔵のエントランスに飾られている、桜の木のメッセージボードからも伺える。花びら型のプレートには支援者の名前が、まるで満開の桜のように隙間なく刻まれている。冬の期間、支援者の名前を眺めながら、酒造りと向き合う。そして、北海道の厳しい冬が過ぎ去った頃、東川キトウシ森林公園は桜色に染まる。その時の花見酒がどのような酒になるかは未知なのだが、醪から響き渡る酵母菌たちの静かな聲を聴く限りは、ひとまず順調といえそうだ。

文:宍戸涼太郎

写真:石井叡

編集:宍戸涼太郎