福岡の県鳥は鶯だということを知っていただろうか。1964年に県のシンボルとして公募により決定されたそうだ。その鶯をラベルに冠した銘柄を醸す蔵が福岡県久留米市に存在する。ちなみに久留米市は人口30万人を超える、九州では県庁所在地以外で唯一の中核都市である。酒蔵の創業は1832年、もともと米や油、醤油などを扱う商家として久留米から博多まで様々な物資を運んでいたそうだ。そうして栄えた山口家は、6代目にあたる山口利助が有馬藩より酒造業の許可を得て開業したのが始まり。

「庭のうぐいす」は「庭の鶯」として当時から地元を中心に親しまれており、有馬藩御用達でもあったそうだ。それからも明治、大正、昭和と時代が移り変わるなかでも順調に製造石数を伸ばしていったそうだ。県のシンボルに鶯が指定される前から「庭のうぐいす」は醸されてきたことからも歴史の長さが伺える。そして、蔵の所在する北野町の人々にとって鶯は身近な存在であった。この銘柄は江戸天保年間、山口家の庭に毎日のように北野天満宮から鶯が飛んできては満足気に湧き水で喉を潤したり、身体を清めていたことに由来する。天神様の鶯に春眠を心地よく破られた6代目・利七は、その清き水で酒造りを始めることを決意。北野天神の名に恥じない酒を造るという心持ちだったという。

また、鶯は自然豊かな里山などに生息しており、春の訪れを告げる。蔵の所在する福岡県久留米市には九州一の大河「筑後川」が北東部から西部にかけて貫流する。熊本・阿蘇外輪山に源を発し大分、熊本、福岡、佐賀を潤す大河である。ちなみに筑後川は、関東の「坂東太郎(利根川)」、四国の「四国三郎(吉野川)」と並び「三大河」と称される九州最大の河川であり、「筑後二郎(つくしじろう)とも呼ばれている。久留米市一帯を含む国内有数の穀倉地帯、筑柴平野を貫流し、その筑後川の水から米が豊富に獲れた。その清らかな水脈と豊かさは九州の象徴的存在として地域の歴史や文化を育んできた。そして、銘酒「庭のうぐいす」もまた、その豊かな自然の恩恵を受けてきたことは言うまでもない。筑後川の伏流水と筑柴平野で収穫された酒米「夢一献」を用いて「庭のうぐいす」は誕生する。地元・福岡の素材で醸すことを理念に据えて、今日まで酒造りを行ってきた。

しかし、順風満帆に歩みを進めてきた蔵も天災により困難な状況に直面する。1991年に発生した大型の台風17号、19号が立て続けに九州北部に上陸。九州各地に甚大な被害をもたらし、山口酒造場も壊滅的な打撃を受けたという。そして、11代目当主・山口哲生氏は「ほぼすべての蔵を建替える必要があった」と当時を振り返る。屋根や外壁は吹き飛ばされ、惨憺たる状況。被災当初はこの地を離れるという決断を下し、酒蔵移転を真剣に模索。蔵から車で40分の距離にある朝倉市の山間部に土地の確保まで行ったのだが、やはり江戸時代から慣れ親しんだ「水」と「空気」を忘れることはできなかったそうだ。これを機に心機一転、蔵の復旧作業を行って復活を果たした。

それ以降は醸造方針の見直しを図り、造りを大幅に小型化するなどの小仕込みでの醸造体制に切り替えた。それは、現在の味わいの指針でもある「おかわりしたい酒」を目指すためには必要な選択だったという。山口酒造場として、他の酒蔵と比較した時に自分たちでしか行っていないという特別な特許などはなく、基礎の徹底と清潔な環境での醸造を重要視する。フレッシュでドライな飲み口と抑えられた香りの酒になるように気を配る。日本酒の原料である「米・水・菌」。それと、造り手の個性を表現しやすい造りに変え、新鮮味のある味わいになるように出荷の時期を考え、その直前に上槽を行えるように工夫を凝らしている。その結果として、香りと味わいが見事に調和する日本酒「庭のうぐいす」が誕生するのだ。土地の恵みによって育まれた酒は、次第に首都圏の有名酒販店にも評価され、目の付く位置に陳列されるようになったそうだ。

現在、海外では空前の日本酒ブーム。「庭のうぐいす」もまた、アメリカやフランスなどに輸出され、国境を越えて世界中で親しまれている。今後、日本酒が人々にとってより身近な存在だと感じてもらえるように、地域での蔵開き行事から世界への輸出まで、小さな発見を大切にしてブラッシュアップを図っていくそうだ。それは、変わらずにこの先も山口酒造場が発展するために。そして、常夏の楽園・ハワイにも鶯は生息しているそうだ。どうやら、約80年前に日本から移民が持ち込んだものが野生化したものが起源らしい。日本・福岡、アメリカ・ハワイ、どこでも鶯は美しく鳴き、存在感を放つ。銘酒「庭のうぐいす」もまた、「nipponのこころ」を醸し、世界へ日本酒の魅力を歌ってゆく。

文:宍戸涼太郎

写真:石井叡

編集:宍戸涼太郎